2012年05月29日

自問自答

一帖目第4通
そもそも、親鸞聖人の一流においては、
平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、
承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。
その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、
さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
 答へていはく、
まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。
おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、
平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふ
ことわりをききひらくことは、
宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、
わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、
本願の由来を存知するものなりとこころうるが、
すなはち平生業成の義なり。
されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、
往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、
平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。
 問うていはく、一念往生発起の義、くはしくこころえられたり。
しかれども不来迎の義いまだ分別せず候ふ。
ねんごろにしめしうけたまはるべく候ふ。
 答へていはく、
不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、
さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。
そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、
諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、
一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、
来迎までもなきなりとしらるるなり。
されば聖人の仰せには、
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といへり。
この御ことばをもつてこころうべきものなり。
 問うていはく、
正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
 答へていはく、
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。
されば二益なりとおもふべきものなり。
 問うていはく、
かくのごとくこころえ候ふときは、往生は治定と存じおき候ふに、
なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰候ふは、
いかがこころえはんべるべきや。これも承りたく候ふ。
 答へていはく、
まことにもつて、このたづねのむね肝要なり。
さればいまのごとくにこころえ候ふすがたこそ、
すなはち信心決定のこころにて候ふなり。
 問うていはく、信心決定するすがた、
すなはち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候ふよし、
分明に聴聞つかまつり候ひをはりぬ。
しかりといへども、信心治定してののちには、
自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、
また仏恩報謝のためとこころうべきや、いまだそのこころを得ず候ふ。
 答へていはく、
この不審また肝要とこそおぼえ候へ。
そのゆゑは、一念の信心発得以後の念仏をば、
自身往生の業とはおもふべからず、
ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。
されば善導和尚の
「上尽一形下至一念と釈せり。
「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、
「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。
これをもつてよくよくこころえらるべきものなり。
          あなかしこ、あなかしこ。
  [文明四年十一月二十七日]
**世間では、死を迎えたならば、僧侶から引導とやらを
してもらって、成仏、すなわち極楽浄土に生まれる。単純明快!
誰でも成仏できるようになっている。
ところが、御文ではそうは言ってないようだ。
釈迦は真理に因縁果を説いている。
悪因悪果、善因善果・・・。
悪い事すれば悪い結果を招く。
良い事をすればよい結果を・・。
それには縁が非常に大事であると・・。
何を以って成仏できるか?
御文では、信心決定しなければならない!
一念発起しなければならないのだ。
一念発起したところに次の答えがある。
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
生きている間に、一念発起すれば、その瞬間に
往生は定まると・・・・。
経に「光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨
   合掌 なむあみだぶつ なむあみだぶつ

自問自答.jpg



posted by 野球じーじぃ at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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