2012年06月12日

電光朝露の夢幻

一帖目第十一通
 それおもんみれば、
人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。
たとひまた栄華栄耀にふけりて、
おもふさまのことなりといふとも、
それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。
もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、
いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。
まことに死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。
されば死出の山路のすゑ、
三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、
またたのむべきは弥陀如来なり。
信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
これについてちかごろは、
この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。
そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、
これを信心のひとといへり。
これおほきなるあやまりなり。
また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、
わがちからかなはずとも、
坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。
これもあやまりなり。
かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、
さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。
まことにあさましや。
師・弟子ともに極楽には往生せずして、
むなしく地獄におちんことは疑なし。
なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、
他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。
      あなかしこ、あなかしこ。
   文明五年九月中旬
1-11.jpg

*****
人間の命は、電光朝露のように、一瞬に光って消える稲妻、
朝、葉の上にできる露も、
太陽が昇ればすぐに消えてしまう間らしい。
佛の世界から見れば、人間の寿命は、
アッという瞬間らしい。
それを、お文では、冒頭に
「人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。」
いかに人生を謳歌しても、わずかの間だと言い、
この世のものは、何も持っていけない。
蓄えた財産も、いとおしい妻も子も死に至っては何の力にならない・・・。
ただ一人死出の山路に向かうのみだ。
その行く未来は・・・・・?→→地獄?
地獄はいやだよな!
ではどうすればよいのか?
他力の信心の次第をよく存知した人を訪ねて
信心決定すればよいらしいが・・・。
  金は貯めて置いていく
  罪は作って持って行く
  法は聞かずに堕ちていく
どこかできいたなぁーーー。
南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ 合掌
posted by 野球じーじぃ at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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