2012年06月02日

殊勝の法

一帖目第七通
 おとこなんどあい具したるひとびと、
この山のことを沙汰しもうしけるは、
そもそもこのごろ吉崎の山上に、一宇の坊舎をたてられて、
言語道断おもしろき在所かなともうし候う。
なかにもことに加賀・越中・能登・越後・信濃・
出羽・奥州七か国より、かの門下中、この当山へ、
道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。
これ末代の不思議なり。ただごとともおぼえはんべらず。
さりながら、かの門徒の面々には、
さても念仏法門をばなにとすすめられ候うやらん、
とりわけ信心ということをむねとおしへられ候うよし、
ひとびともうし候うなるは、いかようなることにて候うやらん。
くわしくききまいらせて、われらもこの罪業深重の
あさましき女人の身をもちてそうらえば、
その信心とやらんをききわけまいらせて、往生をねがいたく候うよしを、
かの山中のひとにたずねもうして候えば、
しめしたまえるおもむきは、
「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障・三従の
あさましきものぞとおもいて、ふかく、阿弥陀如来は、
かかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまいらせて、
二心なく弥陀をたのみたてまつりて、
たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、
かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなちて、
その身を摂取したまうなり。
これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまうといえるはこのことなり。
摂取不捨というは、おさめとりてすてたまわずというこころなり。
このこころを、信心をえたるひととはもうすなり。
さてこのうえには、ねてもさめてもたってもいても、
南無阿弥陀仏ともうす念仏は、弥陀に、
はやたすけられまいらせつるかたじけなさの、
弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなえて報じもうす念仏なり
とこころうべきなり」とねんごろにかたりたまいしかば、
この女人たち、そのほかのひと、もうされけるは
「まことにわれらが根機にかないたる弥陀如来の本願にて
ましまし候うをも、いままで信じまいらせそうらわぬことのあさましさ、
もうすばかりもそうらわず。
いまよりのちは、一向に弥陀をたのみまいらせて、
ふたごころなく一念に、わが往生は如来のかたより
御たすけありけりと信じたてまつりて、
そののちの念仏は仏恩報謝の称名なりとこころえ候うべきなり。
かかる不思議の宿縁にあいまいらせて、
殊勝の法をききまいらせ候うことの、
ありがたさ、とうとさ、なかなかもうすばかりもなくおぼえはんべるなり。
いまははや、いとまもうすなり」とて、なみだをうかめて、
みなみなかえりにけり。
あなかしこ、あなかしこ。
   文明五年八月十二日

***しかし、昔の人は本当に信心深いものだ。
当時は、当然、車などないから、吉崎に参詣するのには
徒歩である。当然だよな!
吉崎へ加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州から
群集とあるから、かなり大勢の参詣したようだ。
それほど、魅力的というより、求める人が多かったのかな?
年取ってからでは、なかなか無理でもある。
殊勝の法を聴くために、
そして、信心を聞き分けて往生を願うとある。
そのために遠くから吉崎へと向ったようだ。
答えを貰って帰ってきたのかな?
  
  南無阿弥陀佛 なむあみだぶつ

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2012年06月01日

明日も知らぬ命

一帖目第六通
 そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、
ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、
いかんと、案じ候えば、
不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。
まことにもってあじきなく、名残おしくこそ候え。
さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、
油断なくそのかまえは候う。
それにつけても、この在所において、
已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、
念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。
この分にては、往生つかまつり候うとも、
いまは子細なく候うべきに、それにつけても面々の心中も、
ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。
命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。
よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。
明日もしらぬいのちにてこそ候うに、
なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、
いたずらごとにてあるべく候う。
いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、
さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。
御こころえあるべく候う。
        あなかしこ、あなかしこ。
  この障子のそなたの人々のかたへまいらせ候う。
  のちの年にとりいだして御覧候え。
   文明五年卯月二十五日書之

***何回読んでもこの御文は理解しがたい
言わんとした事はうっすらと分かるのであるが・・・。
うーーーん?なんのこっちゃ・・。あはは
ということで、他の解説書を参考にした。
それには、生きている間に信心を堅固にするように!
生きている時に、油断していては、後になって
後悔するぞと・・・。
という事は、後悔先に立たずの諺があるように
今、生きてるうちに、御文で言う『信心決定』せよ
ということか!
うん!わかったぞ!
       南無阿弥陀佛 なむあみだぶつ

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posted by 野球じーじぃ at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月30日

『一大事』

一帖目第五通
 そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、
両三箇国のあひだより道俗・男女、群集をなして、
この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、
いかがと心もとなく候ふ。
そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、
このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。
 しかれども、この一流のうちにおいて、
しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。
幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、
いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。
所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、
これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。
よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。
 そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、
そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。
このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。
このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、
こころざしをもいたすべきものなり。
これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。
         あなかしこ、あなかしこ。
  [文明五年二月八日]

**この御文章の写経ならぬPC打ちも、案外大変だ。
これで5日連続で、がんばっているが・・・・。
八十通の五帖御文であるから、一日一通書いても、
八十日かかる予定だ。サボるのを入れると、うーーん・・・・?

当時も、信心を得る人が希であると嘆かれている。
まして、現代においてはいかがなものか?
一度坊主に聞かなくては。
「信心決定」していますか?と・・。

「しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。」
往生できるかどうか!これが一大事であると。
物見遊参で、参詣しておっては何にもならん。
あちこちの有名なお寺は、今は拝観料を払わないと入れない。
見て廻って終わり。坊主は一大事を説いていないなぁーーー。
     
     合掌  南無阿弥陀佛  なむあみだぶつ

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