2012年06月04日

極楽の往生をとげん

一帖目第八通
 文明第三、初夏上旬のころより、
江州志賀郡大津三井寺南別所辺より、
なにとなく、不図しのびいでて、
越前・加賀、諸所を経回せしめおわりぬ。
よって、当国細呂宜郷内吉崎というこの在所、
すぐれておもしろきあいだ、
年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたいらげて、
七月二十七日より、かたのごとく一宇を建立して、
昨日今日とすぎゆくほどに、はや三年の春秋はおくりけり。
さるほどに、道俗男女群集せしむといえども、
さらになにへんともなき体なるあいだ、
当年より諸人の出入をとどむるこころは、
この在所に居住せしむる根元はなにごとぞなれば、
そもそも人界の生をうけて、
あいがたき仏法にすでにあえる身が、
いたずらにむなしく捺落にしずまんは、
まことにもってあさましきことにはあらずや。
しかるあいだ、念仏の信心を決定して
極楽の往生をとげんとおもわざらんひとびとは、
なにしにこの在所へ来集せんこと、
かなうべからざるよしの成敗をくわえおわりぬ。
これひとえに、名聞利養を本とせず、
ただ後生菩提をこととするがゆえなり。
しかれば、見聞の諸人、偏執をなすことなかれ。
あなかしこ、あなかしこ。
    文明五年九月 日
****うむ・・・。
この御文も読み取りにくいなぁーー。
吉崎への参詣を禁止した蓮如上人である。
なぜ参詣を禁止したのか?
そこに、この御文の意味があるみたいだな・・・。
やっぱり、物見遊山、野次馬根性、
観光気分で、参詣しても
佛様は、こっちを見てくれないぞ!と言ってるのかな。
しっかりと信心を確立せよと・・・・。
    
南無阿弥陀佛  なむあみだぶつ

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2012年06月02日

殊勝の法

一帖目第七通
 おとこなんどあい具したるひとびと、
この山のことを沙汰しもうしけるは、
そもそもこのごろ吉崎の山上に、一宇の坊舎をたてられて、
言語道断おもしろき在所かなともうし候う。
なかにもことに加賀・越中・能登・越後・信濃・
出羽・奥州七か国より、かの門下中、この当山へ、
道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。
これ末代の不思議なり。ただごとともおぼえはんべらず。
さりながら、かの門徒の面々には、
さても念仏法門をばなにとすすめられ候うやらん、
とりわけ信心ということをむねとおしへられ候うよし、
ひとびともうし候うなるは、いかようなることにて候うやらん。
くわしくききまいらせて、われらもこの罪業深重の
あさましき女人の身をもちてそうらえば、
その信心とやらんをききわけまいらせて、往生をねがいたく候うよしを、
かの山中のひとにたずねもうして候えば、
しめしたまえるおもむきは、
「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障・三従の
あさましきものぞとおもいて、ふかく、阿弥陀如来は、
かかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまいらせて、
二心なく弥陀をたのみたてまつりて、
たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、
かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなちて、
その身を摂取したまうなり。
これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまうといえるはこのことなり。
摂取不捨というは、おさめとりてすてたまわずというこころなり。
このこころを、信心をえたるひととはもうすなり。
さてこのうえには、ねてもさめてもたってもいても、
南無阿弥陀仏ともうす念仏は、弥陀に、
はやたすけられまいらせつるかたじけなさの、
弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなえて報じもうす念仏なり
とこころうべきなり」とねんごろにかたりたまいしかば、
この女人たち、そのほかのひと、もうされけるは
「まことにわれらが根機にかないたる弥陀如来の本願にて
ましまし候うをも、いままで信じまいらせそうらわぬことのあさましさ、
もうすばかりもそうらわず。
いまよりのちは、一向に弥陀をたのみまいらせて、
ふたごころなく一念に、わが往生は如来のかたより
御たすけありけりと信じたてまつりて、
そののちの念仏は仏恩報謝の称名なりとこころえ候うべきなり。
かかる不思議の宿縁にあいまいらせて、
殊勝の法をききまいらせ候うことの、
ありがたさ、とうとさ、なかなかもうすばかりもなくおぼえはんべるなり。
いまははや、いとまもうすなり」とて、なみだをうかめて、
みなみなかえりにけり。
あなかしこ、あなかしこ。
   文明五年八月十二日

***しかし、昔の人は本当に信心深いものだ。
当時は、当然、車などないから、吉崎に参詣するのには
徒歩である。当然だよな!
吉崎へ加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州から
群集とあるから、かなり大勢の参詣したようだ。
それほど、魅力的というより、求める人が多かったのかな?
年取ってからでは、なかなか無理でもある。
殊勝の法を聴くために、
そして、信心を聞き分けて往生を願うとある。
そのために遠くから吉崎へと向ったようだ。
答えを貰って帰ってきたのかな?
  
  南無阿弥陀佛 なむあみだぶつ

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2012年06月01日

明日も知らぬ命

一帖目第六通
 そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、
ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、
いかんと、案じ候えば、
不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。
まことにもってあじきなく、名残おしくこそ候え。
さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、
油断なくそのかまえは候う。
それにつけても、この在所において、
已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、
念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。
この分にては、往生つかまつり候うとも、
いまは子細なく候うべきに、それにつけても面々の心中も、
ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。
命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。
よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。
明日もしらぬいのちにてこそ候うに、
なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、
いたずらごとにてあるべく候う。
いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、
さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。
御こころえあるべく候う。
        あなかしこ、あなかしこ。
  この障子のそなたの人々のかたへまいらせ候う。
  のちの年にとりいだして御覧候え。
   文明五年卯月二十五日書之

***何回読んでもこの御文は理解しがたい
言わんとした事はうっすらと分かるのであるが・・・。
うーーーん?なんのこっちゃ・・。あはは
ということで、他の解説書を参考にした。
それには、生きている間に信心を堅固にするように!
生きている時に、油断していては、後になって
後悔するぞと・・・。
という事は、後悔先に立たずの諺があるように
今、生きてるうちに、御文で言う『信心決定』せよ
ということか!
うん!わかったぞ!
       南無阿弥陀佛 なむあみだぶつ

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2012年05月30日

『一大事』

一帖目第五通
 そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、
両三箇国のあひだより道俗・男女、群集をなして、
この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、
いかがと心もとなく候ふ。
そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、
このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。
 しかれども、この一流のうちにおいて、
しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。
幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、
いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。
所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、
これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。
よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。
 そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、
そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。
このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。
このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、
こころざしをもいたすべきものなり。
これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。
         あなかしこ、あなかしこ。
  [文明五年二月八日]

**この御文章の写経ならぬPC打ちも、案外大変だ。
これで5日連続で、がんばっているが・・・・。
八十通の五帖御文であるから、一日一通書いても、
八十日かかる予定だ。サボるのを入れると、うーーん・・・・?

当時も、信心を得る人が希であると嘆かれている。
まして、現代においてはいかがなものか?
一度坊主に聞かなくては。
「信心決定」していますか?と・・。

「しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。」
往生できるかどうか!これが一大事であると。
物見遊参で、参詣しておっては何にもならん。
あちこちの有名なお寺は、今は拝観料を払わないと入れない。
見て廻って終わり。坊主は一大事を説いていないなぁーーー。
     
     合掌  南無阿弥陀佛  なむあみだぶつ

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2012年05月29日

自問自答

一帖目第4通
そもそも、親鸞聖人の一流においては、
平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、
承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。
その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、
さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
 答へていはく、
まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。
おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、
平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふ
ことわりをききひらくことは、
宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、
わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、
本願の由来を存知するものなりとこころうるが、
すなはち平生業成の義なり。
されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、
往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、
平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。
 問うていはく、一念往生発起の義、くはしくこころえられたり。
しかれども不来迎の義いまだ分別せず候ふ。
ねんごろにしめしうけたまはるべく候ふ。
 答へていはく、
不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、
さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。
そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、
諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、
一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、
来迎までもなきなりとしらるるなり。
されば聖人の仰せには、
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といへり。
この御ことばをもつてこころうべきものなり。
 問うていはく、
正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
 答へていはく、
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。
されば二益なりとおもふべきものなり。
 問うていはく、
かくのごとくこころえ候ふときは、往生は治定と存じおき候ふに、
なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰候ふは、
いかがこころえはんべるべきや。これも承りたく候ふ。
 答へていはく、
まことにもつて、このたづねのむね肝要なり。
さればいまのごとくにこころえ候ふすがたこそ、
すなはち信心決定のこころにて候ふなり。
 問うていはく、信心決定するすがた、
すなはち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候ふよし、
分明に聴聞つかまつり候ひをはりぬ。
しかりといへども、信心治定してののちには、
自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、
また仏恩報謝のためとこころうべきや、いまだそのこころを得ず候ふ。
 答へていはく、
この不審また肝要とこそおぼえ候へ。
そのゆゑは、一念の信心発得以後の念仏をば、
自身往生の業とはおもふべからず、
ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。
されば善導和尚の
「上尽一形下至一念と釈せり。
「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、
「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。
これをもつてよくよくこころえらるべきものなり。
          あなかしこ、あなかしこ。
  [文明四年十一月二十七日]
**世間では、死を迎えたならば、僧侶から引導とやらを
してもらって、成仏、すなわち極楽浄土に生まれる。単純明快!
誰でも成仏できるようになっている。
ところが、御文ではそうは言ってないようだ。
釈迦は真理に因縁果を説いている。
悪因悪果、善因善果・・・。
悪い事すれば悪い結果を招く。
良い事をすればよい結果を・・。
それには縁が非常に大事であると・・。
何を以って成仏できるか?
御文では、信心決定しなければならない!
一念発起しなければならないのだ。
一念発起したところに次の答えがある。
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
生きている間に、一念発起すれば、その瞬間に
往生は定まると・・・・。
経に「光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨
   合掌 なむあみだぶつ なむあみだぶつ

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